2012/04/28

一番「不思議」なのは、この本の内容でした...


『じぶん、この不思議な存在』鷲田清一
[22/76]bk1
Amazon ★★★★☆
K-amazon ★★☆☆☆

人生が長くなれば、誰でも「自分って何?」「自分って誰?」という疑問を持つことはあるでしょう。一昔前よく言われた「自分探し」なんてのもその一つかも。じぶんって何なのだろう?って考えることはあったけれど、本書で指摘されているように、それは「事象」、つまり「何ができるのか」とか「何になりたいのか」とかいうことであって、自分の存在とは?という哲学的な高尚な疑問にはたどりついていないかも。
そこには、「周り」という存在がやっぱり、ある。周りの目に耐えられるような人間になる、周りと同じ(あるいは上)レベルにのし上がる、といったような。表の意識には出ないまでも、結局はそれが判断材料になったりしている。
...といったような「じぶんとは?」という本質的な生き方、存在に迫る、という内容だと思っていた。多分、本書の内容はその流れからは外れていないのだと思うけれども、ちょっと哲学的すぎてついていけなかった...残念。なんだか「存在」とか「じぶん」とか「他者」とか、その類のワードがたくさんでてきて、はたして何を言っているんだろう?何が論点なんだろうか?っていうのがわからなくなってしまいました。
ただ、「自分の存在は他者によるもの」というのは、なんとなく、わかります。「なんとなく」ですけれど。つまりはそこから直接受け取る感情的なものはどうあれ、自分が他者にとって必要な存在、意味のある存在だと「認められる」かどうか。これがつまり存在を意識できる、ということなのだろう。
それはそうだよね。言葉として言われるかどうかは別にして、ヒトとして存在として、他者の視界にはいっているかどうか、意識の中にあるかどうか、それを感じられると、単純に「うれしい」もんね。逆にいえば、「誰でも代わりになるような存在」と思われていると感じたら、「かなしい」のだ。
それはでも、実際にその他者が自分に対してそう思っているかどうか、というよりは、自らがそう感じるかどうか、という点にかかっているような気もする。つまりは「自分の意識」なのかも。
なんだか、ここでも「じぶん」「存在」だらけになってきてしまった。少なくともこの本に書かれているような「じぶんさがし」は、いまのところは必要ないのかもしれないなあ。それこそ自分の環境に置き換えて感じることができなかったし、読み物として興味関心を引くものでもなかった。
著者が一番言いたいこと、それが読みとれなかった。本を読むときに一番つらいパターン。

【ことば】わたしたちはふつう、成長するということはさまざまの属性をみにつけていくことと考えているが、ほんとうは逆で、年とともにわたしたちはいろいろな可能性を失っていくのではないだろうか。

この言葉にはドキッとする。「大きくなったら」なりたかった夢。それは叶わぬものと確信した現実。 でも「叶わぬ」と決めたのは他ならぬ自分だ。夢を失わない自分でありたい、いつになっても。

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書「ジュネス」)


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