2012/08/31

興味はあるのだが...敷居は(まだ)高い


『ツチヤ教授の哲学ゼミ』土屋賢二
[20/155]bk1
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K-amazon ★★☆☆☆

身体と魂は別である。心はどこにあるのか。「身体ではなく、魂を愛している」と言われたらどう思うのだろう...「心」は身体の中のどこに存在しているのか。脳にあるのだろうか?心を身体、どちらが自分であるのか、逆にいえば自分が自分である根底は、心にあるのか身体にあるのか...

答えがでない質問である。答えが出ないからこそ考えるに値する、という考え方もある。一方答えが出ないものは考えていてもしょうがない、ということも。どちらが正しいとかはないのだと思う。自分の場合で考えてみても、答えの出ないものにこだわる時もあれば、それを思考から除外することもあるのだ。

人間ってそういうことを(たまに)考えるようにできているのかなあ、とも思うが、世界中で貧困に悩み生きるか死ぬか、という環境にある人は、そんなことを考えていることはないように思えたり。だとしたら「贅沢病」みたいなもの?古代ギリシャではホントに、そんな人たちがたくさんいたのだろうか?名前が残るソクラテスさんが、「考える」ことを本当に真剣に日夜していたとしたって、「食べる」ためには何か他のこともしていただろうに...

圧倒的に次元がことなるものの、この手のことを考えると取り留めもなく無意味に思考が拡散していくのが自覚される。そのうち最初に設定した「考えること」がどこかに埋もれてしまい、(もしくはお腹がすいてきたり、電話がなったりで)「現実」に向かい合うことになる。だからいつも中途半端だ。
考えなくてもいっしょなのかな?って思う。

本書は「(身体ではなく)君の魂を愛している」というソクラテスの口説き文句を、ツチヤ教授とお茶の水大生が議論を展開する講義録。どこかに収束するでもなく、なにか確固たる結論がでるでもなく、途中の展開も「いったりきたり」という状態である。であるが、これが「哲学」なのかも、って思う。考えることが、哲学なのでは。答えの出る「試験」や、ひとつではないけれども「こたえであろう」ものを追い求める「仕事」の世界でも、このような「そもそも答えがない」ことについて議論を展開することに慣れていない私たちは、少しの違和感を感じるけれど、そんな世界もわるくないなあ、とは思う。

けれど、本書を読み終わって数時間経つと、忘れちゃうんだよね...「哲学が面白いかもしれない」っていう感覚を。人間としての未熟さ?現実世界との違いでしょうがないこと?また答えが出ない考えに陥り、そして元に戻る...

「あとがき」で別の大学教授が解説している、「本書の土屋先生は、なかなか茶目っけがある」というのがどうしても理解できなかった。大学生の「考え」が間違っているものはない、という広く受け止める度量は感じたが、若干「押しつけ」のようなイメージもあったり。あとがきの「解説」もかなり「哲学的」でした。


【ことば】 そういう世界にちょっとでも入って迷ってみると、自分の思考力に自信がもてなくなるでしょう?...ぼくも自信がもてないんですね。じゃあこれで終わります。

講義の最後、教授の「締めの言葉」です。これが「哲学」なのだろうか?相手を納得させるような理屈だけではなく、独創的な理屈でもいい。そこから議論が始まれば...といったような。また分からなくなってきた...

ツチヤ教授の哲学ゼミ―もしもソクラテスに口説かれたら (文春文庫)


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本の宇宙(そら)

 

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