2012/08/16

「祖国」という考えを確かに持っていなかった、かも

ぼくらの祖国
ぼくらの祖国
  • 発売日: 2011/12/28

『ぼくらの祖国』青山繁晴
[11/146]Library
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K-amazon ★★★☆☆

震災があって、原発事故が未だ収まらない中、「前」とは意識が完全に変わったと思う。これまで当たり前に「カタチ」として目の前にあったものが無くなる怖さ、見て見ぬふりをしてきた原発のリスク、エネルギーの大切さ、そして「日本」という自分たちが属する場所。

第二次世界大戦が「歴史」の一部となっている自分たち世代以降は、「日本」という所属場所に特別な思いを持っていなかったのかもしれない。そんなことを考える必要もなかったくらい「平和」だったのかもしれない。確かに政治や経済の混乱はあったかもしれないけれど、庶民の日常生活を大きく変えるような、「意識」それ自体を揺るがすようなことはなかった。

身の回りのものは大きく変わっていった。世の中「便利」になっていった。「景気」は波があるけれども、「便利」になる過程は、その速度がその都度変わったとしても、進んでいく方向は変わらなかった。

その「便利」は、日常生活の中に静かに溶け込んでいく。けれどそこに「エネルギー」を消費している、という感覚がなかったのだ。だから原発のことを知る動機がなかった。もしかしたら「カタチ」あるものでも一瞬にしてそれが消えてしまうこともある、ということを実感できずにいた。

そして「戦後」という言葉自体が古く思えてしまうほど時間が経って、「今」の環境はずっと以前のそれとは切り離されているような感覚さえ持っていた。古くから伝わる「伝統」よりも、開発された技術に、それのみに目を向けるようになってしまった。今、自分たちが享受している便利さは、今、自分たちが生きているこの場所、環境は、過去からの積み重ねの上に立っているのだ、ということを、意識しないでも生きてこれた。

そんな「あたりまえ」意識が、何か変わってきた気がする。震災、事故がやはりきっかけとなって。改めて「日本」あるいは「日本人」という意識は高まる。オリンピックの高揚もそうだけれど、領土問題も改めて「日本」を考えるきっかけになる。


本書で指摘されているように、「祖国」という意識を、もしかしたら意識的に教育されてこなかった日本人。それは軍国主義的な考え方ではなく、「今ここにあるのは過去からの連続である」ことへの意識である。敗戦という節目のあと、戦勝国の統制に応じてしまった国民性もあるかもしれない。

領土問題は、「資源」に起因するという。諸外国が領土を主張するにはそういった理由があるのだろう。しかしながら日本という国が自国の「資源があるだろう領域」を調査することは、これまでなかったというのが、本書を読んだ中で最も衝撃的なことだった。
なぜなんだろう。先導すべき人たちが「資源がない国」というアタマで、動くことをしていないのか。或いは何か利権が絡んで「動かない」のか。そうだとしたらあまりに悲しい。

自分たちは、この国で生まれ育って、そして未来に向かっていく。だから、この国「祖国」を思い、この国「祖国」をもっと知る必要がある。何かを変えていくとしたら、まず「知る」ことから始めないと。

【ことば】 南三陸の町民の命を救った声は今、ぼくらに向かって、新しく生きよと呼びかけている。

震災の時、津波が押し寄せるまさにその時に、庁舎の屋上へ避難せずに、町民への避難の呼び掛けを続けた職員たち。いざとなった時、ひとのため、みんなのためにそのような行動を起こした彼らに敬意。自分にはそんなことができるのだろうか。

ぼくらの祖国


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何事も楽しく、過ごしたい。
晴耕雨読と読書の日々
 
 

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