2012/05/22

おっ、と思わせる組み合わせ、でもやっぱり...


『バカボンのパパと読む「老子」』ドリアン助川
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久しぶりにその名を聞きました、「ドリアン助川」。今小説を書いたり、東洋思想を教えたりしているんですねー。その活動の中で、「運命的に」結びついたのが、老子とバカボンのパパ、ということ。老子の語るスケールの大きさ、自らを嗤ってみせる度量の大きさ。これがバカボンのパパに似ていると。
このマッチングを実現しただけで、さすが老子を読み解く力をお持ちだと。常軌を逸した想像力とか、老子のことを形容していますが、この組み合わせも「常軌を逸した云々」に限りなく近い。
道=TAOを説く老子について自分は「初」の接触です。バカボンのパパがセットになっているからこそ導かれた出会い、なのかもしれません。その内容は...正直「思想」「哲学」ってどうもハラに落ちないんですよね...ものすごく「本質」を突いているんだと思うし、何年もの月日が経とうとそれを追い求めている人がいる、ってことはやっぱり「本物」であるし、それを知りたい、っていう欲求は、あるにはあるんですが...
無為自然。これまで経験したことのないような「行き詰まり」感を迎えている(と一部で言われている)現代には、この先の道筋が必要なのかもしれない。それをどう見つけていくのか、ヒントのひとつとして、いにしえから伝わる思想や、哲学の中に求めることも、ひとつの行動だと思う。「生きる」ってことを本当に考えたら、多分答えはでないんだろうけれど、「考える」ことはずーっと昔から人間が、し続けてきたことなんですよね。これは真実だろうと。
自然に還る。生きている、ということは自然の摂理とともにあるということ。それを無視して強引なことをすれば歪が生じる。つまりは「道=TAO=自然の摂理」を受け入れ、生き方を見つめ直す必要があり、今まさに、見直す必要に迫られれいる、と。
どうなんでしょう?確かに真実を突く「重さ」は感じられます。ですが残念ながら浅薄な自分には「ささる」までには至りそうもありません。ただ、これは「老子」と自分の出会い、きっかけにすぎないのであり、「次」につながればよいのだと、軽く考えていたりします。
本書の構成は、漢文⇒ドリアンによる開設⇒バカボンのパパの言葉訳、というパターンで成り立っています。本来なら漢文の「空気」を感じるべきなんでしょうけれど、主に「パパ語訳」を中心に読むことも(自分はそうでした)できますね。きっかけ、としてはよいのかと思います。

【ことば】難しいことはそれが難しくなる前の易しいうちに働きかけ、大きなことはそれが大きくなる前の小さなうちに何とかするのだ...どえらい人は、ものごとを大ごとには決してしないのだ。だからかえって大きなことをやり遂げるのだ。

これは「極意」です。難しいことをやり遂げる人ばかりが偉いわけではない。本当のすごい人は、難しくしない、ということだね。野球で守備の上手い人は、守る位置から違う。ファインプレーではないけれど、 ボールが飛んでくるところに既にいる。これと似ているかな。

バカボンのパパと読む「老子」 角川SSC新書 (角川SSC新書)


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