2012/05/23

「読むだけ」ではなかなか到達できない境地。

平常心のレッスン (朝日新書)
平常心のレッスン (朝日新書)
  • 発売日: 2011/10/13

『平常心のレッスン』小池龍之介②
[16/92]BookOff
Amazon ★★★★☆
K-amazon ★★★☆☆

プライド、快楽、欲。ストレスを生み出す要素がたくさある中で、それらの因子を避けるためには「平常心」を見つけることだ。それは、喜怒哀楽すべての感情につながる外的内的要因を「ありのまま」に受け入れること。あきらめることではなく、刺激に対してそのまま受け入れることだという。
究極は「死」である。その誰にも避けられない終着に対する恐怖心があるから、それを避けるものとしての意識が根底にあるから、すべては「欲」につながり、平常心を欠くことになる。死さえも「あたりまえのものとして受け入れる」ことができれば、平常心につながる...
仏の教えを説く著者であるからこういう流れになるのだろうけれど、なんとなくわかる気もします。言葉にして文章にしてしまうと、「死さえも受け入れたならばなんでもできる」という短絡的な直結型のイメージを持ってしまいますが、自分の死を周りの死を「受け入れる」ことで、自分にプラスに作用するようになる、いや「する」というのが究極の思想であるような。
平常心でいられない理由は、プライドだったり、欲だったり。それを越えるためには瞑想だったり、呼吸だけを意識することであったり、食事の仕方なんてのも紹介されていました。概念的には理解(?)です。が、どうしてもそれを自分に置き換えて、「じゃあ今日から瞑想してみようか」という気にはならなかった。当然といえば当然ですが、このような非日常の行動については、やはり「読む」だけでは理解不能なのだろうと思います。説法というのはその人の話しを眼の前で聞いてその深み、重さをその場の空気と共に「受け入れ」、感じることで初めてなんらかの意識の変化が起こるものなのでしょうね。本はあくまでもきっかけに過ぎない。もちろん、読んで実行できる人もいるとは思いますが、少なくとも自分にはそこまでの行動を起こす元にはなっていない。
「ま、いっか」の精神が平常心を保つ。あきらめではなくて受け入れ。小さな違いのようで大きな違い。欲がすべて悪いわけではない、という意識と、「そうはいっても目の前の現実はさあ」っていう俗世間にどっぷりの意識が、平常心への道を遮っているようです。
確かに「真実」に近付く、本当のあるべき姿に向かう、というのはともすれば「欲」に変わって、当初の思いとは別方向に進むことが多い、というか大多数。それを越えるにはやはり「境地」を目指すべく「行動」をせねばならないのかも...とは思います。世俗の欲にまみれた社会、これが少しだけ、ほんのわずかではあるけれども、「楽」ということがあるんだけれど、そのほんの少しがあるから、そこから脱しきれないんだね、これを「弱い」というのかどうか分かりませんけれども...
「平常心」が少しでも身につけば、穏やかな人間になれるかも、っていう僅かな感覚、これだけいただきました、まずは第一歩として。

【ことば】...平常心が基礎にあれば、私たちは多少の浮き沈みに一喜一憂せず、コツコツとこの人生の道のりを歩んでいくことがかなうのです。

多分に宗教的な言葉使いに見えますが、人間として目指すのはこのような「大きさ」です。長いのか短いのかわからない人生ですが、「浮き沈み」は当然ある中で、でも全体みれば「浮」の傾向だよ、って意識を感じるようにしたい。あ、これ「欲」かも...

平常心のレッスン (朝日新書)


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