2011/08/31

「報道」の役割の本質が。

小泉の勝利 メディアの敗北
小泉の勝利 メディアの敗北
  • 発売日: 2006/11/25

『小泉の勝利 メディアの敗北』上杉隆
[16/156]Library
Amazon ★★★★☆
K-amazon ★★★★☆

小泉首相時代と「その後」を比べてみると、その違いに改めて驚く。もちろん社会情勢が大きく違うし、政権党も違う、そして「その後」の総理の座についた方たちの資質もあるだろう。そしてメディア。小泉さん時代もそうだったのかもしれないけれど、「持ちあげて落とす」というまるでぱっとでの芸能人のような扱いの延長戦に、我が国の総理大臣は並べられてしまっているようだ。
著者のお名前は存じませんでしたが(失礼)、かなりの「プロ」の執筆者であることは感じる。本書では、小泉政権の内部についての記述はあるが、どちらかといえば、その時の政権に対するマスメディアの取るべき立ち位置、という視点で書かれているのが力強い。ご本人の意に沿わない形だったと思うけれども、「小泉後」の人事について、誤った記事を書いたその記事を掲載したり。それが結果的に間違いだった、ということよりも、そもそも「後継」を想像して記事にすること自体の無意味さを感じたり。
日本の総理大臣は、我々ひとりひとりの代表。直接選ぶことはできないが、その人に託し、その人の言葉を信じて、やっていくしかない。キレイごとだけども、本来はそういうこと。駄目なときはそれを指摘する必要があるし、それを伝えるのが「ジャーナリズム」だったりするわけで。そういう意味では(本来、国民を代表して国のことを考えるべき)メディアに携わる人のポジションは重い。一市民としてはそこからの情報しかない、という明らかな情報格差があるわけだから。
ちょうど、与党民主党の代表選が行われたが、当の与党もそうだし、伝える指摘すべきメディアも相変わらず「人事」だけの問題に終始して、誰がどうなんだか、まったく伝わってこなかった現実。街中で新代表の印象や期待の言葉を拾ったところで、メディアのコンテンツにしかならないし、好き嫌いのレベルしか発信できない。見方を変えれば、誰がトップに立とうと、極論すれば、政治がうまくいっていれば関係ないし、そもそもそんなこと(人事)が気にならないようなレベルまで政治が高まればいいと思っているんだけどね。市民は目の前の自分のことでいっぱいですよ。政治家はそのレベルではないはずだし、そんな市民の代弁者であることを改めて意識していただければなあ、って(えらそうに)思ったりします。そしてそのチェック機能としてのメディアは、本来の立ち位置を取り戻してほしい。確かに「人事」記事はヨミモノとして面白いけれども、誰かの「院政」とかの話しを読んでも、どうにもならないもどかしさ、やるせなさが残るだけ。
署名記事についても書かれていて、記事を書いた人の名前を明かさないのは日本のメディアだけだとか、「政府関係者」「党幹部」とか、曖昧な「オフレコ」が記事として成立しているのは、確かに不信感ですね。だって、私たちの代表でしょ?「センセイ」なんて呼ばれちゃうと勘違いするんだろうかね。政治家先生たちが劇的に変わることは考えにくいので、著者のような「するどい」視点で、明確にアウトプットできるメディアに期待するしかありません。よくもわるくも景気や元気を左右するのは、政治家よりも「メディア」ですから。

【ことば】小泉純一郎の演技に台本の類は一切なく、いかなる窮地でも、彼はすべてアドリブで通した。

そこが「小泉」前、そして後との大きな違いでしょう。小泉首相以外はすべて「台本」ありき、という感じがします。しかも他の人が書いたもの。魅力を訴えるのは、「自分の言葉」ですよね。国の代表がそのくらいのレベルに達していないことは悲しいことです。

小泉の勝利 メディアの敗北

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